2015.4.12たなべあーFB投稿記事
【忘れない日の回想録】
あたたかい。
朝、街を歩いていたら、
おじいちゃんの一団に遭遇。
どこか行楽に出掛けるらしい。
どうやら同じ方向らしく、意図せず私は集団に飲み込まれて、そして暫くのあいだ紛れて歩いた。
おじいちゃんはまっすぐ歩けない。
それでいて、若いもんにはまだまだ負けんぞ的な強い意思を感じる足取りで歩き、でもまっすぐ歩けない。
危ないのでそっと道をそれた。
いい天気だ。
溜まっていた洗濯をすませ、コーヒーを片手に一服しながら街を眺めている。
すっかり春の陽気だ。
なぜか幼かった子どもの頃を思い出す。
古くて懐かしい記憶を蘇らせたスイッチは、暖かな日差しに照らされた街路樹、のどかで平和そうな街の佇まい、肩を並べて歩く家族たち。
のんびりとしていて幸せそうな世界の景色。
おそらくはそんなすべての景色、活気に満ちた街の音、匂い…それらが今の自分の心の有り様と混ざり合って化学反応を起こし、ある種の電気的な信号を脳内に生じさせた結果だろう。
その景色の世界に私はいない。
いつも外側から中を見ていた。
知らぬ土地を見物する観光客のような、現実世界を覗き見る別世界の住人のような、まるで自分はまだ社会に存在していないかのような、そんな感覚に包まれて私は育った。
「居場所がない人」と紙に書いてイスに貼って、待合室に置いて居場所にした。そうして作った特等席から社会を眺めて、そこに参加する日を待っていた。
いま思えば私がやった路上生活は、そんな孤独な子どもの最後の観光であり、同時に決意、待合室とのお別れと子ども時代への決別、という強い意志が表出したモニュメント的行動だった。
と、余談が長くなった。
とにかく、側から世界をじっと眺めて観察しながら、自分はどこへ行こうか、どんなふうにこの世界に登場しようか、どう存在しようか、どう生きていこうか、いつもそんなことを考えていた。
不思議でありながらもとてつもなく有意義だった子どもの頃のあの感覚。
今またそれに近い感覚の中にいる。
一番最近では、会社を辞めてから起業当初、そう、ちょうど昨日書いた街角ゲリラ就活支援で街をチャリで走りはじめる頃までが、やはりこれと似た感覚だった。
今、またなにかがはじまろうとしている。
それにしても信じられない。
子どもだった自分がもう42歳だ。
すべきことはまだまだある。
「早くしろ。先を急げ。
まっすぐ歩けなくなる前に。」
おじいちゃんがそう語りかけてくる。
全てはメッセージなのかもしれない。
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